見果てぬ夢を求めて 世界5大ラリーに出場した 国際ラリースト
中島聡尚 長野県千曲市雨宮
肉体的にも精神的にも、地球上で最も過酷なスポーツともいわれるラリーに魅せられ、サラリーマン生活を続けながら、世界5大ラリーに参戦した人物が、中島聡尚さんである。中島さんの父親は厳格な国家公務員だった。事故を起こすことを心配して車は厳禁の家庭に育ったが、その反動で高校3年で免許を取得。一気にクルマの魅力にとり憑かれていった。
大学3年で早くも国内ラリーを体験し好成績を収めたことで、自分の実力がどこまで世界に通用するのか知りたくなった。しかし、ラリーには1000万円以上の莫大な資金が必要となる。サラリーマンとして生活しながら、中島さんは見果てぬ夢を追い続けた。そして、最初の国際ラリー「エジプト・ファラオラリー」に初デビューしたのが30代に入った1989年のことだった。貯金の300万円をすべてつぎ込み、不足の1000万円近くの金は自らが企画書を書いて、スポンサー探しに奔走した。結果、アフリカの砂漠を走破するこの壮絶なラリーで、日本人最高位となる4位入賞を果たした。
その後「オーストラリアン・サファリ」「南米ラリー」「パリ・ダカールラリー」そして世界最長の「パリ・モスクワ・北京ラリー」など数々のラリーに挑んだ。たとえば南米マラソンレイドなどは、ペルー、チリ、アルゼンチン、ボリビアの15,000Kmを25日間も走らなければならないんです。日中温度は40度を超えるような砂漠を陽が落ちるまで走らなければならないことだってある。途中、”必ずカベ“はある。でも、リタイアしたら普通の人です。終わってから納得できる結果を残したいから必死に頑張る。
人間には攻めのタイプと守りのタイプがありますが、ラリーは完全に攻めのタイプじゃないとできないですね」と語る。1日800Kmも走り続けると、夜になっても手の腫れがひかない。岩場のジャンプの連続で首は慢性的なムチ打ち状態になっている。ラリーが終わると体重は激減し、帰国してから社会生活に慣れるまでかなりの時間がかかる。続いた緊張と高揚感を沈めるため精神のバランスをとる時間が必要になるためだ。それでも、中島さんはラリーへの夢を燃やし続けている。
「そこに山があるから、という登山家のロマンといっしょ。昨日まで一緒に走っていた仲間が命を落として、今日はもうそこにはいないということも何度も味わっていますが、自分だけは大丈夫と信じている。ラリーは自分の持っている引き出しを試されるスポーツでもある。いざという時に、どう対処するか。それによって明暗がはっきり分かれてしまうんです」と熱っぽく語る中島さん。
現在は「モーターランド野沢」で後進の指導にあたる一方で、「もう一度、パリ・ダカールを走ってみたい」と意欲をみなぎらせている。
NASC sandworks project
ナスクサンドワークスプロジェクト
JAF公認団体としてモータースポーツの推進を目的として発足、
スタッフは長野、東京、埼玉、USAで合計50名
「パリダカ」、などを中心とした海外ラリー参加経験者が1/3所属、
通訳スタッフも配置し、世界基準のモータースポーツ展開を目指し活動して行きます。